生への執着と不安

森田正馬強迫神経症になる者は生への執着が強すぎる」


なるほどお。

強迫神経症の強迫行動は不安をぬぐうために起きる。

不安とは生きるためにまず必要なものだもんな。

完璧に生きようとするあまり、不安に囚われるのかもしらん。


鈍感さはひとつの強さだと思うようになったと書いたが、

それは生への執着から離れることなのかもしれない。

だから不安を感じない。

鈍感さというか、おおらかさといった方がいいかも。

感じないのではなく、感じたものを受け入れてなおそれに囚われない能力。

見て見ぬフリをするとか無意識に抑圧する鈍感さだと無理が生じて副作用があるから、

受け入れてなお、というのがポイントかな。

許せる心の広さ。


それはやはり自信があるからだろうか?

少しくらい失敗してもいい、大丈夫だと思っているから

生への執着からも離れられるのか?

自信があれば不安を感じることも少ないだろうな。

存在の肯定感、生きてるそれだけでいいんだと思っていることで、強すぎる執着から離れられる気がする。

根本的な信頼感てやつ?

世界は思ったより怖くないし、自分も大丈夫だと信じていることで

少しくらい痛い目をみても頑張れるし、勇気を出して積極的にチャレンジしようという意欲も湧くもんだ。

この安心感とか信頼感が希望のもとかな。


逆にほんとうに絶望して、生きるのを諦めたときにも生への執着や不安からは離れられそうだけど、それでなお自分らしく生きられるかというと微妙だし。

生きるのを諦めてしまったら、もう原動力がなくなってしまう。

希望がなくても鈍感、おおらかにはなれる。絶望による自暴自棄。

でも絶望から希望を見出して開き直れなきゃ、そのまま死んでしまう。

(あと自尊心とも関連がありそうだけど、それだと生への執着強くなりそうだからやっかいっぽい)


開き直りというとニーチェのことを思い出す。

無意味だからこそ自分で意味を作るのだみたいな。

でも彼は開き直れなくて快楽に溺れてしまったとか習ったな。

開き直るのにもなかなか無理があるのかなあ。

絶望的な世界じゃなくて、希望に満ちた世界観があるほうがずっといいもんな…

根拠がなくても信じることはできるけど、信じるためにはやっぱ安心感や信頼感みたいな感覚が要るんだろう。