平成生まれネット育ち幸せそなやつだいたい宿敵
小学生のころからネットやってた感覚として
思春期から品のない匿名掲示板(もちろん品のあるとこもある)に長く触れていると
ある人種(DQNとかFランとかビッチとか在日とかリア充)に対する劣等感や嫉妬、あるいは偏見や差別が身体に染み付いていく
それは共有されたイメージの集まりとして語られるようになったもので、典型例であり架空の敵である
それを知らないのは恥だし、自分たちとは違うもの、劣ったものとして見なすことが文化になる
それを次第に自分の周りにも適用しはじめるので、
どうしたって世界に敵が多くなる
不要な劣等感も強くなる
安全圏から叩くことで優位に立とうとする文化に馴染むと、
自尊心を保つためにどんどん敵が増えていって生き辛くなる
だから私は子どもにまとめブログやツイッターを見せたくないな
何かを認め尊重することは、負けを認めることではないし
負けを認めるからといって、自分が劣っているわけではない
攻撃性が抑制されず、おしみなく発揮されている場においては
何かに失敗する・劣っている・負けるということが、あまりに価値のないこととして捉えられすぎている
ある分野ではダメだとしても、それはある分野でのことにすぎず、ひとつの枠組みにすぎない
ほかの枠組みなんて無限にある
存在自体の価値をひとつの枠組みで決めることはできない
よーするに見方によるのだ
そもそも価値どうのこうのの問題ではない
なにかの基準や条件とは関係なく
生きているこの存在そのものを認められるべきである
さすれば失敗も負けも劣等も恐るるに足らず
自分の価値を信じて
自分の文脈や別の角度から捉えればいいわけである
それではどうしたらいいのか?
ある対象を安全圏から叩くことで自分の優位を示して自尊心を保つのではなく
別の方法で自尊心を保つ方法を身につけるためには…
そもそも絶対的な自尊心があればいいわけだ
存在そのものに対する無条件の肯定ってやつ?
結局そうなるんか!